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高村 光太郎
(写真提供:高村規氏)
| 人名 | 高村 光太郎(たかむら こうたろう) |
|---|---|
| 本名 | 高村 光太郎(たかむら みつたろう) |
| 生年月日 | 明治16年3月13日 |
| 没年月日 | 昭和31年4月2日 |
| 紹介文 | 高村光太郎は、明治16年下谷西町3番地(台東区)の九尺二間の長屋に父、彫刻家高村光雲の長男として誕生しました。本郷区駒込千駄木林町155番地に転居したのは10歳の時です。明治28年13歳で本郷森川町の開成予備校に入学、15歳で東京美術学校予科に入学、彫刻科に進みます。その頃さかんに短歌、歌、詩を創作します。明治39年24歳で横浜を出発、アメリカ、イギリスを経由し、パリに留学、イタリアを経由し帰国します。留学経験は後の芸術、社会への意識に多くの影響を残しました。 明治42年帰国、父の隠居所の天井に窓を開けてアトリエを作ります。詩の会、美術の会などに参加したり、森鴎外、平野万里などと交流を持ち、積極的に芸術に取り組み、大正3年10月には、代表作『道程』を抒情詩社より刊行します。明治45年父の家のすぐ近くにアトリエを設計し、その頃知り合った画家・長沼智恵子と大正3年12月に結婚、芸術を第一とした新婚生活が始まります。後に、「光太郎智恵子は たぐいなき夢をきづきて むかし此処に住みにき」と歌を作りました。しかし、昭和6年智恵子49歳の時精神を病み、昭和13年56歳で亡くなります。光太郎は、後に『智恵子抄』に収録された「レモン哀歌」などの私的な愛の詩を作る一方、戦争謳歌詩へと傾いていきます。 敗戦後、岩手県太田村の山小屋にて農耕自炊生活入り、文学者としての戦争責任を凝視し続けます。昭和31年74歳で死去、智恵子の眠る豊島区駒込の染井霊園に埋葬されました。 |
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おもな作品
評伝など
掲載日 令和7年10月14日







