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石川 啄木
(写真提供:石川啄木記念館)
| 人名 | 石川 啄木(いしかわ たくぼく) |
|---|---|
| 本名 | 石川 一(いしかわ はじめ) |
| 生年月日 | 明治19年2月20日 |
| 没年月日 | 明治45年4月13日 |
| 紹介文 | 石川啄木は、明治35年に上京し、小石川小日向台町の大館みつ方に住み始めます。明治38年5月に詩集『あこがれ』を出版、77篇の詩を収め、啄木はこれにより明星派詩人として知られるようになります。 明治41年4月に再び上京し、同郷の金田一京助を頼り、本郷区菊坂町の赤心館に下宿をしますが、生活難のため本郷森川町の蓋平館別荘に転居します。この時、金田一京助は啄木のために自分の蔵書を売り、赤心館での借財を支払っています。 明治42年1月1日に『スバル』が創刊され、啄木は発行名義人となり、小説『赤痢』を発表します。同年、東京朝日新聞社に校正係として採用され生活の基盤を得ることができます。一方、やはり函館での生活に困窮していた老母と妻子はやっとの思いで上京、啄木はしかたなく本郷弓町2丁目の喜之床(新井という理髪店)の2階を間借りして新生活を始めます。しかし、上京後の行き詰った生活と病苦に耐えかね妻が家出。またも、金田一京助と新渡戸仙岳に助けられ、妻が帰宅するがこの事件が啄木に精神的な打撃を与え、文学上の一転機となりました。明治43年12月に第一歌集『一握の砂』を刊行。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は注目を浴び、歌人の地位を確立します。 明治44年、肺結核を患い同年8月7日、小石川久堅町へ転居。明治45年3月には母カツが肺結核で死去。4月9日に第二歌集『悲しき玩具』の出版契約が結ばれるが、その4日後の4月13日早朝、啄木は危篤に陥り、妻と父、若山牧水にみとられて26歳の若さで永眠します。 |
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評伝など
掲載日 令和7年10月14日







