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(写真提供:文京区アカデミー推進課)
人名
森 鴎外(もり おうがい)
本名
森 林太郎(もり りんたろう)
生年月日
文久2(1862)年1月19日
没年月日
大正11年7月9日
紹介文
石見国津和野藩の典医の長男として生まれました。明治5年10歳の時父とともに上京、本郷壱岐殿坂(壱岐坂)の進文学社でドイツ語を学びました。明治7年東京医学校予科(後の東京大学)に入学、明治14年に卒業し、陸軍軍医副に任ぜられ東京陸軍病院課僚となります。明治17年、念願のドイツに留学、ライプチヒ・ドレスデン・ミュンヘン・ベルリンの四か所で、陸軍衛生制度および軍陣衛生学を学び明治21年に帰国しました。帰国後は、評論雑誌『志がらみ草紙』の創刊、「
舞姫
」などドイツ三部作の発表、坪内逍遙との文学論争など、軍務の傍ら次々に戦闘的な活動を展開していきます。
私生活では、明治22年に赤松登志子と結婚、長男於菟が生まれますがまもなく離別、駒込千駄木町57番地(後に漱石もこの家に住み「吾輩は猫である」を書きました。)に居住しました。
明治25年には、本郷台地東端の駒込千駄木町21番地に祖母・父母と同居、この家からは、はるか遠く東京湾の潮路が眺められたといわれ、鴎外は自邸を「観潮楼」と名付けました。
明治35年小倉在任時に荒木志げと再婚、明治40年には与謝野寛・佐佐木信綱・伊藤左千夫ら多彩な文学者を集め「観潮楼歌会」を開催します。また、
「半日」「雁」「灰燼」
などの文学作品を相次ぎ発表し、所謂「豊熟の時代」と言われる盛んな文学活動の時代を迎えます。
明治45年、乃木希典が殉死。これを契機に、「
興津弥五右衛門の遺書
」を発表し、その後は歴史小説・史伝への関心を強め、「
渋江抽斎
」等の優れた作品が次々に生まれます。
大正5年陸軍省医務局長退任。翌年、宮内省帝室博物館総長兼図書頭に就任しますが、大正11年7月9日、生涯の友人賀古鶴所らに見守られ、観潮楼に60歳の生涯を閉じました。墓は現在三鷹禅林寺。観潮楼跡には昭和36年鴎外記念本郷図書館が建てられました。
※このサイトでは、どなたにもご覧いただくため、「鴎」を新字で表記しています。ご了承ください。
関連URL
・文京区立森鴎外記念館
・森鴎外記念館(津和野町)